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東京高等裁判所 昭和31年(う)262号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、被告人及び弁護人中島登喜治連名の控訴趣意書に記載されているとおりであるからここにこれを引用し、これに対し次のように判断する。

所論に鑑み、記録を精査し、原審において取り調べた各証拠を仔細に検討し、当審の事実審理の結果と併せて考察するに、当審の検証の結果、当審及び原審における証人日暮恒次及び被告人の各供述、被告人の検察官に対する供述調書の記載、及び司法警察員高知尾重治作成の実況見分調書(添付図面及び写真共)の記載を総合すると、本件事故発生当時の状況は次のとおりであることを認めることができる。

即ち、被告人は自動車運転者であるが、昭和二十九年十二月七日午前十一時ころ、積荷のない小型四輪貨物自動車(車輌巾一、六五七米。車輌番号千、四の八〇六八号)を運転し、千葉県東金市方面(東方)から千葉市内方面(西方)に向い、幅員六、一〇米、アスフアルト舗装の東金街道を時速三十粁乃至四十粁の速度で進行し、千葉市加曽利町三百六十五番地の一の地先附近に差しかかつたところ、約五、六十米前方の右側(北側)の同町五百十二番地先で、東金街道と交叉する坂月町に通ずる道路から、自転車に乗り、東金街道に出た田中庄司の姿を発見したので、直ちに警笛を鳴らしたところ、同人は被告人の自動車の方向を振り返り見て、そのまま自転車を進行させ、東金街道をやや南西に横断し、道路中央部より南側(自動車進行方向に向つて左側)に至り、ハンドルを右にきり、西方千葉市内方面に向けて真直に進行したので、被告人は、右自転車との距離約二十米の地点でブレーキペダルを踏み、クラツチを切りやや減速し、ハンドルを右にきつて道路北側に進路を転じ、右田中庄司の自転車の右側を通過すべく進行したところ、被告人の自動車の距離が約十二米に迫つた際、突然田中庄司が自転車のハンドルを右斜にきり、道路中央部から北側(右側)の方向に進行しはじめたので、被告人は衝突の危険を避けるため、直ちに急停車のブレーキをかけると同時に、ハンドルを右にきつたが、自動車車輪がスリツプしたため、急停車の措置をとつた地点から約十一米余、右道路南端(左側端)から約四米余の地点で、自動車前部左側フエンダーと左側扉附近が、自転車のハンドルに接触し、自転車及び田中庄司は道路上に転倒し、これがため同人は七十余日入院加療を要する左恥骨骨折の傷害を受けたものである。

田中庄司は原審及び当審において、前記坂月町に通ずる道路と東金街道の交叉点において同街道に出たときは、同街道を横断することなく、直ちに自転車のハンドルを右にきり、右折して同街道の北側(右側)を千葉市内方面に進行していたところ、後方から被告人の自動車に追突された旨証言しているが、右証言は、同人の検察官に対する供述調書に記載されている供述と一致しないばかりでなく、前記高知尾重信作成の実況見分調書及び司法巡査吉野喜代司作成の「業務上過失傷害被疑事件発生について」と題する書面にそれぞれ記載されている、田中庄司の自転車の本件衝突に因る損傷の箇所及び程度から考察しても田中庄司の右供述はいずれも措信することはできないし、右実況見分調書その他原審において取り調べた証拠のうち、被告人が自転車に乗つて東金街道に出た田中庄司の姿を発見した場所が約二十二米前方の地点である旨の部分は、前記当審の事実審理の結果に徴し、採用することはできない。その他前記認定を覆すに足りる証拠はない。

そこで前記事故発生に関し、被告人の過失の有無につき更に按ずるに、前認定のように、被告人は田中庄司の姿を発見するや直ちに警笛を鳴らし警告したところ、同人が被告人の自動車の進行するのを確認しながら、東金街道を横断し、その南側(左側)を真直に西方の千葉市内方面に向け、自転車を進行させたのを見たので、被告人が、同人の右側を追い越すべく、自動車の進路を同街道の北側に転じ、規定の最高速度よりも減速して進行せしめたことは、前車の態勢並びに右道路及び自動車の各幅員等からみて適切な措置であり、また、後車が前車を追い越す場合には、その右側を通過すべきことは、凡そ自動車、自転車等の車輌を運転する者には、公知のことであるから、田中庄司が後方から自動車の進行して来ることを知りながら、何等の信号もなく、突然自転車の進路を右側に転ずるような所為にでることは、前記状況に鑑み被告人として到底予見できなかつたことであり、且つ予見しなかつたことについても過失がなかつたものというべく、被告人が、右自転車と約十二米の距離に接近したとき、田中庄司が突然自転車の進路を右斜に転じ、道路中央より右側に進行して来たのを目撃し、直ちに急停車の措置をとり、且つハンドルを右側に切り、自動車を道路右側一杯に避譲させて衝突を防止しようとしたことは、その執つた措置、時期及び方法のいずれも自動車運転者として適切であり、被告人に前方注視義務の違反その他右の経過において注意義務を怠つた点を認め難い。尤も前記実況見分調書の記載及び当審の証人高知尾重信の証言によれば、被告人が前記のように急停車の措置を執つてから、該自動車が停車するまで二十米以上もスリツプしていること及び同自動車の車輪の一部は、制動機能が完全でなかつたことが窺われるのであるが、被告人の司法警察官に対する供述調書の記載によれば、被告人は本件事故発生の日より四日前である十二月三日、本件自動車の機械を点検し、異状のないことを確認した事実を認めることができるし、前記証人高知尾重信の証言によれば、本件事故発生の際は、被告人が急停車の措置を執つて自動車を避譲させた前記道路右側の路面が、下水が溢れて濡れていたため、スリツプの距離が長かつたこと及び事故発生当時右自動車は、運輸省令道路運送車輌の保安基準第十二条所定の停車距離十四米以下という制動能力を有していたことを認め得るのみならず、前認定のように、被告人が急停車の措置を執つた地点と、自動車が田中庄司の自転車に接触した地点との距離は十一米余であるから、本件事故発生の原因が減速不十分の過失又は自動車点検に関する被告人の注意義務違背にあることも認められないし、また本件事故発生が被告人の操縦した自動車の制動機能の不完全に基因するものとも断定することができない。

以上いずれの点から検討しても、本件事故発生の原因が被告人の自動車運転者としての過失にあることを認めることができないから、原判決がこれと反対の事実を認定しているのは、正に事実を誤認したものであり、この誤が判決に影響を及ぼすことは明白であるから、原判決はこの点において破棄を免れないものであつて、論旨は理由がある。

よつて当裁判所は、刑事訴訟法第三百九十七条、第三百八十二条に則り、原判決を破棄し、同法第四百条但書の規定に従い、自ら次のように判決する。

本件公訴事実は、被告人は、自動車運転者であるが、昭和二十九年十二月七日午前十一時ころ、千第四―八〇六八号小型四輪貨物自動車を運転して東金方面より千葉市に向い、時速四十粁位で、千葉市加曽利町五百二十三番地先東金街道に差しかかつた際、前方二十二米位に、右側方道路より自転車に乗車し、東金街道に出て千葉市方面に向い進行している田中庄司当六十年を発見したのであるが、右田中を追い越すには、警音器を吹鳴し追越合図をして、その安全なのを確認してから追い越し、以て衝突接触等の危険を未然に防止すべき業務上の注意義務があるが、これを怠り、右自転車を発見した際に警音器を吹鳴したのみで、右自転車は進路の左側を進行するものと軽信し、その後追越に当つては警音器を吹鳴せず、その安全なのを確認しないで、漫然その右側より追い越そうとしたため、十米位に近接したとき、右自転車が右斜に進路上を横断する如く進行しているのに気付き、狼狽してハンドルを稍右に切り、急ブレーキをかけたが及ばず、自動車の左側前部ベンダーを自転車右側車体に衝突させてその場に転倒せしめ、因て右田中庄司に対し、約七十日間の入院治療を要する右恥骨の傷害をこうむらしめたものであるというのであるが、被告人の過失に因り、右のような事故が発生したことを認めるに足りる証拠がないから、刑事訴訟法第四百四条、第三百三十六条に則り、本件公訴事実は犯罪の証明がないものとして、被告人に対し無罪の言渡をすべきものとする。

よつて主文のとおり判決する。公判出席検察官、検事田辺緑朗

(裁判長判事 谷中薰 判事 坂間考司 久永正勝)

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